未来の本の形
前者は本と言う物の新しい形態を模索し、出版、流通も含めた新しい(くもないか...)事業形態であり、後者はストレートに本の内容に関する取り組みで、もちろん規模も入り口も違うのだけど、共通項として聞こえてきたキーワードは「出版界の活性化」である。正直、前者の「電子出版」が「出版の活性化に寄与する」かどうか、個人的には甚だしく疑問だ。所詮は銭金の側面からの思い付きでしかないように思う。そもそもこう言った試みは以前からあるけど、
なぜ定着しないのか。そんなことを少し考えてみた。
以下はどちらかと言うと学術書やレポート等には当てはまらず、小説に限定した話だ。思うに本を読む行為とはその本の重量、めくる時の紙の感触、匂い、そして文章量(若しくは厚み)に比例して得られる読後の達成感(内容の酷さに打ち消されて、憔悴する事もまま有る事だが)、それら全てを総合的に味わう物だと思う。それらが得られるべくもない電子書籍を僕は読みたいとは思わない。
しかし、こう言った企画を本気で「出版界の活性化」に繋がると考える方々にとっては、もっと切迫した問題なんだろう、と思う。大概本好きが本に触れるきっかけは幼少期であり、TVやゲーム、そしてパソコンが彼らの娯楽の大半を占め、本に触れる機会を奪っている事も確かだ。それを逆手に取って、それら対立媒体から文章を読ませる機会(快感)を与えてしまおう、と言う考えは判らないでもない。有る程度は与える事が出来ると思う。しかしそれが「本」に触れる事に繋がるとは思えない。既にこの手法は音楽や映画では様々な商品として確立している。しかし、音楽や映画はさほどハードウェアに捕われない側面を持つ。違う言い方をすればユーザー側がそのハードウェアの差違(それによってスポイルされるもの)を意識して、ソフトウェアに触れる事の出来るメディアと言えようか。対して「本」は前述の感触等、ハードウェアを限定するメディアだと思う。
また、音楽や映画は個人ではなく、その場に複数の他人が交じる事を許容し、またそれがその作品世界に膨らみを持たせる事が可能だ。対して「本(特に小説)」と言う物は極めて個人的な世界を構築する事を必要とする。その世界の構築には本の持っているモノとしての感触が不可欠なように思うのだ。
むしろ、ハードウェアの変換などより、再販制度や法的整備(古本や中古マーケットを駆逐せよ、と言う事ではなく、新しい流通の形を見いだす必要が有るのではないか、と言う意味)が進んだ方が「出版界の活性化」に繋がるのではないかと思うが、この辺は門外漢なので、なんとも言えない。現在古本など、中古市場との軋轢が問題となっているが、そもそも供給側が肥大化し過ぎて、一種のデフレ状態になっているだけのようにも思える。
もう一つの試み「トリビュート 村上春樹!」はどうだろう。これは結構おもしろいのではないか、と思った。もちろん既存の愛読者限定の発想だし、新しい市場を開拓する事はないと思うが、本来、極個人的な小説と言う作品観の中で、他者を組み入れ、新たな世界を構築してしまおう、と言う発想は従来なかった。どちらかと言うと個人の作家性を重視する出版に於ては、忌み嫌われていたような発想のように思う。しかし、「おもしろい」とは思うが、残念ながら個人的には読みたいとは思わない。なぜなら、小説とは作家個人の世界観を読者がそのどこかに共通項を求め、個人限定の世界観を自分の中に持つ事で成立する物だと思うから。そこに他者の世界観が混じれば、それは別な物になるし、元来(少なくとも僕は)それは求めていない。
と、ここまで書きつつ、このエントリが駄文にしかならない事に気付いた。実は数日前からこれを書き始めているのだけれど、どうにも趣旨がはっきりしない。「個人」と言う物がキーワードになりそうなのだけど、着地点が見えなくなってしまった。その原因は事実、自分自身がMacと言うオモチャに触り出してから、明らかに「本」を手にしている時間が減っているからだ。実は村上氏の「海辺のカフカ」も発売当日に購入しておきながら、ちっとも読み進んでいない。なんともヘタレな事です。次に書く時はその「ヘタレ」を受け入れた所から、改めて考えてみるとしよう。と言う事でいつか判りませんが、「つづく...」
Posted by at 01:17
▼1年前はこんなこと書いてました...▼