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2009年04月26日 (日)

CategoryImage「グラン・トリノ」

「グラン・トリノ」を観てきた。言うまでもないですが、本文はネタバレ含みます。


良い映画だった。その一言に尽きる。以下は僕の物語。人によってはこんな感じ方ではないかも知れない。

相も変わらず、取り立てて目を引くような派手な演出もやらず、しっかり据えたカメラに、イーストウッドを中心とした登場人物が現れては捌ける、謂わば舞台的なモンタージュで見せ切っている(まさにそこがいいのだが)。映像屋からすれば、何だか喰い足りないような気がするのだが、内実、と言うかこの映画の最も濃い部分は、その手練手管を弄さない部分に語られているのである。即ち、なぜ死の予感を描いたのか、と、禊と懺悔をしたのか、と言うこの2点。

通常のドラマツルギーならこれらは描かなかったり、ラストのドラマ解決の後に語られてもおかしくない、お涙頂戴ポイント。そこを敢えて時制を追って、あくまで主人公ウォルト・コワルスキーの目線で見せ切った事こそ、この映画の核であろう。往々にして平板に陥りがち(だけど陥らない所が御大故で、ユーモアたっぷりな登場人物達のやりとりに、思わず頬を弛めて見入ってしまうのだが)な淡々とした描写故、ラストのオチさえも中盤辺りで予想が付いてしまうのだけど、実はその意外性にはこのドラマのベクトルは振られていない、と言う事をエンドクレジットが流れ始めた辺りで漸く観客は気付くのである。だからこそ、ウォルトが何を「時間をかけて考え」何を「決めたのか」を、劇場を後にしてなお考える事になる。この辺りの観客の魂に杭を打つような石の投げ方が堪らなくて、毎度イーストウッド作品に足を運んでしまうのだが、今回も見事にやられた、と言う感じだった。

以前も書いたけれど、やはり観客をどこまで行っても信頼している、つまりは人間に対してどこかで絶対的な信頼があるんだろうな、と改めて感じた。

ただ、本質的にはやはり、この映画が表現するアメリカの現状やイーストウッドが投げた石の意味を、日本人がきちんと理解し共感する事は難しいと思う。それでいいと思うし、それ以上に得るものもきちんとある映画なのだからそれでいいのだろうが、感覚的にそのアメリカ人(特に白人系の)が感じたであろう寂寥感みたいなものを体感出来ないのは残念でならない。

それと、相変わらずの戸田奈津子訳は、英語に不得手の自分でさえ節目節目で違和感を感じ、気持ちを折られるしで辛かった。基本的にセンスに欠けるんだろうなぁ。

Posted by at 05:20


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